永福寺略史 移転史まで
誓願寺由緒
およそ千百七十九年前(昭和八年現在)即ち人皇四十六代孝謙天皇の天平勝寶七年、泰澄大師能登国御巡教の際、異僧の御告げにより阿弥陀如来を石刻し、念持佛の由緒深き如意輪観世音菩薩と共に大屋の庄横川の地(現輪島市鳳至住吉神社北辺)に一宇を創立し、諸佛を安置し鳳来山誓願寺と号す。(該寺の遺佛として現在永福寺秘蔵地蔵尊と観世音 により誓願寺ありし事明らかなり)
それより八百二十年間余り真言律院として法燈を続照せり。御佛の霊験日々新たにして遠近の道俗、祈願佛として順礼祈願者多く、時の領主長谷部信連帰依ありて祈願寺として七堂伽藍装備の大寺院たりしが、正新町天皇の天正年間、騒乱の際不幸にも火災に罹り一山尽く、諸記録等悉く烏有に帰し只御佛のみのこり給えり。
其の後、再興を発願するものなく三百年余り廃絶の悲運に沈林淪し只仏像のみ民間にて守護し来るに過ぎざるしを以て、光明天皇の安政年間に至り、信者相謀りて鳳来山麓荒蕪の地三百歩を開拓して、明治六年漸く一宇を建て、遷座奉安供養を厳修し、明治八年五月二十三日鳳来堂と命名せしも只雨露を凌ぐのみの粗屋なり。(以上開闢年代深遠にして確乎たる文献あらざれども口伝演技等による)
旧永福寺由緒
旧永福寺は僧曹洞宗大本山総持寺の五院の一なる傳法庵の門中塔司寺なり。
後土御門天皇の文明十二年本山輪住第五十三世可屋良悦禅師開闢したる所なり。禅師は本山輪住第十八世日山良旭禅師の法嗣なり。
総持寺本山開祖瑩山紹瑾
二代峨山紹碩
輪住八世大徹宗令傳法庵開基
輪住十八世日山良旭広永十二年九月十五日
輪住五十三世可屋良悦永福開山広永三十三念十月二十八日
良悦禅師康正二年丙子十月十日示寂なさる 其の後世代十二世を経たりしも、徳川幕末に五院を廃寺とせられたる時多くの塔司寺も殆んど廃寺となりしも、該寺は本山門中直末寺に編入せられて保存し来たりしを、明治三年妙応寺住職百衲玄秀和尚十三代目として継承し法地を起立 法地開闢と申し法地二世は百詢普参和尚なり 永福寺兼務住職織田雪巌和尚が同国輪島町鳳至の阿弥陀仏堂へ寺籍を移籍する迄、即ち明治四十一年迄、実に文明十二年の開闢より凡そ四百二十年余り本山の膝元に在て御霊塔に奉仕し来たりし古刹なり。
永福寺移転記 阿弥陀仏堂並びに旧永福寺合併迄の記
公称阿弥陀佛堂 石川県鳳至郡輪島町大字鳳至町鳳至丁一三九,百四十番地
旧永福寺 石川県鳳至郡櫛比村字門前一九二七番邸
移籍合併 明治四十一年五月一日許可を得る
転籍地 公称阿弥陀仏堂の現籍地にして鳳来山公園東北の高地なり
阿弥陀仏堂の前称は鳳来堂と称し、その昔誓願寺の本尊佛を守護せる安置堂は小宇なりとも霊験明らかなること近郷の民草広大なる慈恩に浴せざる者なかりしが誓願寺廃絶後誰一人再興を発願するものなし。
降りて中御門天皇の享保三年戍戊(一七一八年)輪島町の久保屋與四平氏六体の地蔵尊を石に刻して本尊佛脇立として三昧摩地に安置せり 孝明天皇の安政年間に至り信者相謀りて鳳来山東北の麓荒蕪の地三百歩を開拓して明治六年漸く一宇を建立し誓願寺の遺佛を奉安し(明治八年五月二十三日)鳳来堂と名付け朝夕之を供養せり。亦、如意輪観世音菩薩は誓願寺廃絶後住吉明神の社境に於いて一時崇め奉り、当国三十番札所として
順礼道者巡拝せり 年降りて住吉の小堂も朽ち果て、時の肝煎直酒屋清左エ門に預け置きしに、当地に種々怪しき災変あり 御郡奉行村井安左エ門なる人 妖は徳に勝たず邪を拒くに善を為すに如かず 此処に霊威の神仏あらんやと 依って人々予ねて承り伝えし御仏の事を申し 直に只今鳳来山公園に所在する観音堂を建立し安置し奉るに 不思議なるかな変災たちどころに鎮まり霊験昔日に異ならず 此れ享保十六年の事なり
明治六年に至り信者等の協力により一堂を建立し 霊験あらたかなる阿弥陀如来並びに地蔵尊を安置するも 堂守なきを憂い 明治七年に至り珠洲郡片岩村曹洞宗海蔵寺徒弟鈴木寛耕長老を迎えて堂守となす
明治十五年十月二十六日堂守を退任す 海蔵寺住職福山真巌和尚同寺を隠居し代わりて鳳来堂の堂守に補せらる 真巌和尚信徒と相謀りて町内の寄付を募り更に一堂を建立す 明治十六年春大本山総持寺禅師の代僧を得て入佛式を厳修せり 然れども単なる御堂にして寺号なきを憂い 茲に請願寺復興の念漸く厚く 総代北門三吉、久保喜平、白藤栄八、熊野太郎等先に相謀り 明治十六年二月八日大本山総持寺へ上山し 御直末の一寺創立するの内諾を得るも其の後石川県令岩村高俊へ出願せしも規則に抵触するところありし故を以って許可せられざりき 依って明治十七年八月二十五日堂宇据居許可を出願せり 時の県令より下附せられて同日より阿弥陀佛堂と公称せり
明治二十一年二月八日真巌和尚事情により堂宇を辞し去る 茲に於いて同二十四年二月八日輪島町浄土宗法蔵寺住職柴田順道師をして堂守を兼務せしむ 同年六月十八日恵比寿山に於いて大鐘を鋳造す 同二十七年七月二日順道師死亡 同年九月羽咋郡西増穂村酒見曹洞宗龍護寺住職美谷文周和尚をして兼務せしむ 徒弟市堀文応長老(当時二十三歳)をして師匠に代わり堂の維持、布教発展の任に当たらしめたり 以って同三十七年庫裡を建て殿堂を整う 同四十年一月再び寺号移籍を大本山総持寺へ請願す 同年十一月二日付廃合御添書を得て地方丁へ出願 茲に多年の懸案市堀和尚並びに信徒等の努力により同四十一年五月一日を以って石川県知事村上義雄より許可せらる
寺籍は曹洞宗大本山総持寺直末、鳳来山永福寺と称し、位置を阿弥陀仏堂の現在地に据える 当該佛堂を修繕して本堂とし 庫裡山門等を建築して寺院の財産を具備するに至る 誓願寺の遺佛を奉安して永福寺の本尊佛となす 如意輪観世音菩薩は元より誓願寺の遺佛なれば永福寺にて管理し春秋二期盛大に観音祭りを厳修す
廃合に際しては旧永福寺の什物等は新永福寺に寄付することにし 境内地は借地なるを以って地主に返還す
檀信徒は門前村興禅寺等の各寺院へ編入なさしむ 茲に於いて檀徒皆無となり旧永福寺移籍の恩金(金壱百円)は阿弥陀仏堂信徒等に於いて工面出来ず 市堀りんなるもの金壱百円を捻出す 使者として日吉虎蔵の行く次いで永福寺開山の件に付き一同議謀の上六月十五日大本山総持寺貫主勅賜大円玄致禅師を開山として拝請願を届出せしが元より永福寺は傳法庵派にして開山は可屋良悦禅師なりと 同年七月二十三日付きで法地開山百衲玄秀和尚二世普参和尚、市堀文応和尚は第三世足るものと許可せらる 先に開山拝請と共に堂守市堀文応和尚
住職候補として選出し同年七月二十三日本山特選に依り永福寺住職任命辞令交付
明治四十一年五月一日移転認可を得たると共に旧永福寺は本山膝下を離れ山内寺院の格を解かれる 同年八月十六日管区組入を認められ法地等級五十三級に査定せられ大本山総持寺直末となる 多年の念願たる移転問題も幾多の困難を経て現在地に法憧を建て復興の宿志を貫徹するに至りしは佛の霊験に依り佛慈加護を得たる雖も信徒等の努力も無形ならず市堀文応和尚の師美谷文周和尚の力を得 信徒久保喜平、良沢次三郎、熊野熊次郎、伊藤喜助、日吉虎像等日夜寝食を忘れ釈尊一茎草を念じて梵刹を建立するの漢 黒夜に寥々たる星を見るより明らかに 真に其の功労偉大と云わざるべけんや
昭和八年九月九日謹書 永福六世孝之
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